そら豆

私、そら豆がだいすきなんです。

そら豆をスーパーで買って、

とっておいたんだけど、楽しみに。

そしたら、変色していてとても悲しかった。

 

そら豆をすごくすごく楽しみにしていたのに、一番美味しい旬の瞬間を

逃してしまったみたいです。

 

好きな食べ物は最後にとっておく派なんです。理由は、「後味を良くしたい」

ということからきてます。

 

最後に好きなものを噛み締めたいという

気持ちがあって。

 

だけど最近、

それ意味あるのかな?と思ってきた。

 

可愛い可愛いお洋服を買って、

大事で、大切すぎてクローゼットの中にいるのは、それは本望ではないし。

 

今度言おうとした言葉をとっておいても

きもちのちょきんは意味ないし。

 

大事に大事にとっておくって、

旬を逃してるんじゃないの?

 

全部ぜんぶ

時は進み、いつか果てるからね。

野菜だって、水でさえ腐るんだよ。

鉄やプラスチックでさえ朽ちるんだよ。

 

この世にあるものぜんぶ、

ナマモノなんじゃ?と思えてきた。

 

もののけ姫に出てくるシシガミ様の

歩く足跡の場所がどうして腐るか知ってる?

あれは、その場所だけ時を進めてるからなんだって。消して腐らせてるわけではなくて。

時を進ませてるんだって。

 

 

何事もナマモノだと思って

腐らせないようにしたい。

 

 

なるべく真空パックで保存したい気持ちはありますが、それでさえ鮮度は落ちるのでは。

 

この気づきをどう活かせば、

人生がより良いものになるのか?

はて。壮大すぎてるね笑

 

以上、だいすきなそら豆からの気づきでした。

 

2020年3月

2020年始まったばかりだけれど、

コロナウイルスの影響で、

 

いろいろなタイミングや思いが

どこもかしこも、ぐちゃぐちゃに

なっている。

 

この時期に

何かを始めようと意気込んでいたり

何かの始まりに懸けていた人もいたでしょう。

 

この時期に、

年度末だし、何かを終えようと

こころに決めていたり、

最後に懸けていた人もたくさんいたでしょうね。

 

うーん、特定される誰かのせい

とかいう次元ではないかも知れないけど

 

怒りや憎しみが溢れてるんじゃないかと。

 

この今のタイミングに懸けていた思い

 

わたしにもあります。

もちろん。

 

楽しみにしていた予定がなくなるし、

惜別のときを、ちゃんと迎えることができないんじゃないかと、

 

モヤモヤが募る。

 

これが、タイミングというやつですか?

全世界のタイミングというやつですか?

 

とても難しいけど、

しょうがない。

と一言では済まされない気持ちが、なんだかじわじわと心に浮かんでくるなー。

 

だけどね、こういう時だからこそ

何か別の事に気づける人間になりたいと常々思っています。

 

家にいる時間が増えたから

相手とコミュニケーション取れる時間が増えた!とか。

 

家にいる時間が増えたから、

じっくり自分と向き合うことができた!とか。

 

直接は会えないけれど、

しっかりと熟考した言葉を

伝えることができた!

直接会えないからこそ、

お互いに気持ちを文字にして

伝え合うことができた!

 

とかね。

こういう事ができたり、

こういう風に考える事ができると

 

いいなぁと思う。

まあ、実際は難しいよね。

簡単な話ではない。

人生を懸けていた物事と向き合っていた人もいるだろうし。

 

でもさ、今、このタイミングで

成し得なかった事が不幸かどうかなんて、長い目で見ればわからないじゃないですか。

 

あぁ、あの時こうしなくて良かった。とかいう幸せが後からプレゼントされるかもしれない。

 

わからないけどね。

 

全国、少しマイナスなニュースばかりで

淀んでしまうけど、

 

もうすぐ桜が咲きますよ。

桜が咲く頃にどうなっているのか

不透明ですが、

 

四季が進むのを、待つ。

健康に、待つ。

 

これが

時が進むということなのでしょう。

 

 

いつか、また会って

直接、顔を見合って

思う存分!!コミュニケーションがとれる!!そんな季節が巡りますように。

おもんぱかる

このブログでも、ずっとずっと

ものごとや全てのものが

いつか果てる、と

言い続けてきたし、

わかってきたつもりです。

その時がついにきた。わかってたし、私も大人だし。と理解ある大人な心にさせていたけれど、ある人の言葉を読んで

泣きました。

 

やっぱり、誰しもが

言えないことや事情を隠しながら

いろんな物事を背負いながら

日々生活をしているんだ、

それでもやっていかないといけないんだと思いました。

 

その思いや事情を奥に秘めながら

向き合う時、どんな気持ちだったんだろうなー。切ない心が浮かんでくるなぁ。

 

この事実を知って、

あの人がしんどい気持ちな時、

なにかを与えたり、支えたりすることが

ほんの少しでもできたかな、って考えた

少しでも心がほころんで、和らぐような

言葉を伝える事ができたかな?

 

詳らかに答え合わせをすることなど

二度とないと思うけど。

だけどお互いが分け合ったり、分かち合ったことを考えることこそ、

「おもんぱかる」ってことなんじゃないかなと思う。

 

支えれたかな?なんて、どうして自分が与える側の事ばかりで、また受け取る側の事を考える事ができないんだ、、

と一瞬情け無くなったんだけど。

でも、よく考えてみるとね、

 

なにものにも代え難い、

言葉や行動や想いをもらってるからこそ

恩返しの意味を込めて、

私からも何か与えることできたかな?

という思考回路になってるんだと思う。

 

充分過ぎるほど、与えてもらい

それを受け取ってるから、

だからそればっかり考えるんだと思う

 

 

 

こうなることが分かって、

初めて、これまで惜しみなく伝え続けてきて良かったと心から思う。

 

いつか果てることなど

わかりきっているのにねぇ。

 

これからも、素直に生きていきたいと

思います。

 

人間は、しあわせになるために、

決断するんだからね☺︎

 

きもちのちょきん

年の瀬ですね。

2019年は愛の年になると占いで読みましたが、年の瀬になり振り返ると、

ほんとうに愛の年だったと思います。

 

家族愛、ペット愛、友情愛、人間愛

さまざまありますが、確かに、

「愛の年」

でしたね。

 

そして、今年大きなことに気づきました

それは、「きもちのちょきん」は

しても、意味がない。ということです。

 

こうなったらああ言おう。

今度会ったら、こう言おう。

まあ、今度でいいや。

 

今度ってなんですか?

今度っていつですか?

それ、ほんとに、その瞬間来るんです?

その瞬間を手にできる保証どこにあるんです?

 

好きな食べ物を最後にとっておく

のと同じように、

有終の美を飾ろうと、

あとでとっておこう、と

思ったその感情、言葉。

 

貯めても意味ないなー。と

貯金は身になるけど、

きもちのちょきんは、良くない。

 

しあわせを噛み締めなさいと自分に常に言い聞かせ、噛み締め、

感情もなるべく失礼のないよう

その場で精一杯伝えてきたつもりではあったけれど、振り返るとどんどん出てくる。

 

あの時、ちょきんしたきもちは

どこへ行くのでしょうね。

感情や言葉は、ナマモノだなあと

改めて気づきました。

 

だから、私は

やっぱり怒らないでいようと思う。

一瞬の怒りが、最後のやりとりになるかもしれない。

その一瞬の怒りをコントロールできなくて、一生後悔することになるかもしれない。

あの時怒ってよかった、なんて思える日なんて来ないと思う。

 

何を与え合い、

何を受け取り合い、

なにを分かち合ったのか、

よくよく考えたい。

 

他人にはわからないものが必ずある。

 

大丈夫だよ、そんなに不安にならなくて

 

しっかり互いに向き合って来た。

それを忘れてしまいそうなので、

ここにしるしておきます。

 

大丈夫。しっかりと向き合ったし、

2人で時間を紡いで来たんだよ。

 

おもい

最近、本を買いました。

 

その名前は

 

メシが食える大人になる!

よのなかルールブック

 

と言います。

お子さんでも分かりやすい言葉で、

よのなかの生きるために大事なことが

たくさん書いてある。

どれも素晴らしいのだけど、

大人の私たちでも、

きっとちゃんと出来てはいないことも

その中にたくさんある。

頭ではわかってるけど、

それを実行にすべてうつせているのか、と問われるとそれは難しいと思う。

 

本当に、そうだよなぁと

思うことがたくさんある中で、

今いちばんお気に入り

なのが

 

「自分のことばで話せる人になる」

 

です。

 

お手紙を書く上で、思いを伝えるうえで

とても大事なことだよね。

でもこれってすごく難しいの。

 

 

だけど、相手から、

すごく考えて自分の言葉で思いを伝えてくれた時っていうのはすごく嬉しくないですか?

とてもとても。

 

伝えてくれた言葉がとても嬉しくて、

裏付けを探したくなる時も、

もちろんありますが。

 

考えても考えてもわからないし、

そこまで踏み込むべきではない、

と思うから。

だからその言葉を伝えてくれた事実だけを受け取りたい。

 

その言葉を伝えようと思った経緯

きっかけとなる出来事が

きっとあったはず。

 

自分の言葉で、照れずに

伝えたい、と思います。

 

なぜ、私はお手紙を10年書き続けることができたのか、を考えてみると。

 

それは、相手の方が私のお手紙や

おもいや行動を、

絶対に無下にしない人だと

わかっているからです。

 

どうして、日々を紡ぐことができたのかというと、無下にしてくれない人だと知っているからです。

 

照れない人でありたいし

安心感を与える人でありたいと

願います。

これは、ずっとずっと思ってるんだけど

 

鏡でみる自分の顔

 

写真でみる自分の顔

 

アプリで撮る写真の顔

 

全部全部なんか違って見える。(´・_・`)

アプリは変わらせるためのものだからある意味合っているけれど、

 

鏡と写真違うなーとか。

左右差かな?瞳の関係?

何がなんだか詳しい点については

わからないけれど。

 

死ぬまで、自分の事を

側から目にすることなんてないよなー

なんて当たり前のおバカな事を考えたりもする。何か媒体を通してでないと自分の外見を確認できない。当たり前だけど

 

好きな人の前だけでは、前だけでも

可愛くいたい、可愛くありたいと願うばかりであったり

 

顔は変えれなくても、顔つきは変わるから

良い顔つきになって欲しいと願うばかりで

あったり

 

きっと内面が外に出るだろうから、繋がってるから外見しっかり整えよう、身だしなみとして、と考えたり。

 

願ったり思ったり考えたりすることは

山ほどあるんだけど、

 

人と対峙するときに私たちは何をみてるんだろうなー、とふと。

 

顔をみてる?

 

瞳をみてる?

 

表情をみてる?

 

空気感全体をみてる?

 

何をみてるんだろうね。

 

外見だけでなく、そんなことより

その人との、関係性や信頼感やエピソードを踏まえた上で、「その人」としてみてるのかな?どう思う?

 

写真で、アプリで、

こんなに盛って、これだけしか盛れなくて?、こんなにも盛って?

 

なにをみてるんだろー

 

まあ全ては自己満足だよって言ってしまえばそこで思考が止まってしまいそうだからもうちょっと考える。

 

相手に自分がどんな風に映ってるのか

はすごく興味深いけれど、

 

まずは自分がどんな風にいたいのかを

ちょっとゆっくり考えてみようかなー。

 

正すためには鏡が必要なわけで。

ありとあらゆる鏡を感じて、

いろんな事を正していこうと思う。

いろんな事が鏡であるというのは

私の好きな名言の一つから学んだし。

 

 

まあ、ただ

願わずにはいられないけどね。☺︎

 

 

 

 

 

手紙

あまり正確に、事細かに記録している

わけではないので、声を大にしては

言えないかもしれないけれど、

 

ある人にお手紙を書き始めて、

今年で10年になります。

人生の中で、何かを10年自分の意思で

続けようと思い、「続ける」事ができた

ということにとても誇りを感じる。

 

ん〜、いや違うかな。

決してしっかりとした反応がないのに

ある意味一方的に、伝え続けてきた

自分自身の、「強さ」に誇りを感じている、のかもしれないね。

 

気づけば10年経ってた気もするし、

いつもの、当たり前のことになってる

から、特にこれがゴールだともあまり感じてはいない。

けど、この10年間の間に、

自分の心もきっと、とても成長したと

思うな。お手紙と一緒に。

ましてや、相手の方と一緒に成長できたかもしれないね。

ずっと黙って、聞き続けてくれて

受け止めて、見守ってくれたわけだから

 

感謝以外のなにものでもないね。

こんな贅沢ないよね。

 

 

この10年は、私が勝手に切り取った10年なだけであって、この先も、

どうしても時を刻んでいくんだよね。

 

お手紙を書き始めた幼いあの頃から

今も、これからも変わらないのは

この先も、未来が少しでも嬉しい事がたくさんあって、しあわせに感じる事がたっぷりあったらいいなあ。と思う。

そして、健康であってほしい。

そうしたら、私はとっても嬉しいです。

 

苦しくて毎月毎月、縋るように書いた日もあれば、嬉しくてうれしくて連日書いた日もあるし、泣きながら書いた日もあれば、大好きな場所で書いた時もある。

 

10年書き続けても、

自分の感情を相手に伝える難しさ、

思いを言葉にして伝える難しさを感じてる。未だに上手くはできないなあ。

 

だけど、その時の感情って

その時に言わないと、雪の結晶みたいに消えちゃうよね。その瞬間、すっごく美しいのにね。もったいないよね。

 

だから、伝えようと思う。

 

言いたいことを言う、

のと

思ったことを言う、

のは違う、と学んだけれど

これまた難しい話なんだ。

 

でも、やっぱりね、相手の受け取り方までは、こちらはコントロールできないんだよね。そこを触ろうとするのは違う。

 

今大好きな「蝶々結び」という歌詞に

 

結んだつもりがほどいてたり

緩めたつもりが締めていたり

 

って。なるほどなぁと思うよね。

 

自分の想いが届いてほしいなんてエゴだよなーと思う時もあれば、

 

相手の受け取り方次第よね、なんて

ちょっと相手のせいにしちゃったり

 

10年という月日をかけても、

どうにもこうにも、これ!といった

正解などないですが、

 

この「手紙を書く」ということを、

「あの人に」手紙を書くということを、

続けてきて、やってきて、始めて、

よかったなと心から思う。

 

自分と相手の方に感謝と拍手を送りたい

ありがとう。

これからも時を刻んでゆく中で、

この事実が、どこかで何かで

功を奏して、しあわせが生まれたら

いいな。